夢を録って、売る。 そのビジネスが始まったのはいつのことだったろう。 二十一世紀の終わり? 中盤ごろ? 僕は歴史に明るくないから詳しいことはわからない ただそんなビジネスが始まってから、娯楽作品の幅が面白いぐらいに広がったことは知っている。 夢。僕らが毎日見ているそれは、当時の人間達の想像以上に豊かで、広がっていた。 ちゃちな映画なんか、眼じゃないくらいの風景。匂い、感触。 誰もが表現者になれた。だって、必要な道具は、夢を記録する機械、ただそれだけなんだから。 ただし、何でも自由になるわけじゃない。夢を見るのは毎回とは限らないし、見たとして売り物になるかどうかは別問題だからだ。 明晰夢、という言葉がある。 そう、望んだ夢を見られるというそれ。 このビジネスが広まってから、誰もが明晰夢を見たいと願うようになった。 そうすれば、みんながみんな自分の見たいものを見れるようになる。作れるようになる。 でも、やっぱり何事にも天稟というものがある。 どれだけ望んだって、明晰夢を見れない人は見れなかった。 だからこそ、ビジネスとして成立するのだけど。 人には嗜好がある。病気に分類されるようなものから、くすりと笑われてしまうものまで様々だ。 人々はその嗜好にあった夢を探して、買う。そして、見る。 音がついているかどうか、とか、モノクロなのかとか、そんなことは買ってみないとわからない。 一応、暗黙的にそういうことを記すべきだというのはあるけれど、書かない人は書かないのだ。 何処までもリアルな夢は、まるで麻薬のように人々を魅了していった。 人を魅了できる夢を見られる人は崇められるようになった。金持ちになった。 けれど、同時に、彼らにあまり現実を見せないように人々は振る舞うようになった。 何故? そう、彼らにとって、その人々は、理想の作品を生み出してくれる雌鳥でしかないのだから。 余計な餌はいらないのだ。 選別された餌を食べて、そして、卵を産んでくれればいい。 ……国や自治体が、危険だと思ったときには、もう遅すぎた。 ビジネスは広まりすぎて規制しようにも規制が出来ない。 そして何より、規制する側が、そのビジネスの恩恵を受けてしまっていた。 身動きは遅れに遅れて、何人もの素晴らしい夢を見る人が永遠に夢の中に閉じこめられた。 永遠に、人々が満足する夢を見るために。 でも、それはある意味では幸せなことなのかも知れない。 だって、本人はこれから先、怖いことも、厭なことも、一切を受け付けることはないのだから。 夢を録って、売る。 そのビジネスは、今日も続いている。 今日もそして、明日も。 ずっと、ずっと。 人々が満足するまで、ずっと。